今回はマイナーところに行ってみたいなと、候補地を探してみました。姪浜にも実はたくさんの探索スポットがあるのですが、そん中でも特にマイナーそうなスポットに目をつけて、いざ出発!姪浜商店街から脇道に入り、トコトコと路地を抜けていくと、探していた黒田藩儒学者「亀井南冥生誕之地」がありましたっ! |
あったのですが、正直「へっ???」と拍子抜けしてしまいました・・・。現在は写真のように駐車場になっており、その一角に案内板が建っているのみ。 |
案内板によると、黒田藩の儒学者である亀井南冥(かめい なんめい)先生が生まれた場所のようです。ですが、亀井南冥先生と言われても、全く誰かわかりません!スポットしては、案内板が建っているのみでしたので、今回はこの亀井南冥先生について調べてみました。 |
実は亀井南冥先生は、かの有名な志賀島で発見された金印の価値を見出した方なのです!金印が発見されてすぐに「後漢書東夷伝(「後漢書」の列伝の一。西暦57年に倭奴国王が光武帝から金印を授かったという記事がみえる)」を引用して金印の由来を説明し、結果として亀井南冥先生の名が高まることとなります。また金印発見の報と印文、そして鑑定書を全国の学者と知人に送ったりもされました。 |
筑前国早良郡姪浜村、それこそ案内板が建っているその場所で、1743年に村医であった亀井家の長男として生まれました。様々な地で儒学、そして医学を学ばれましたが、秀才として名を馳せ、「独嘯庵門下の三傑」と呼ばれたということです。帰郷した後は唐人町に福岡藩藩校・西学問所「甘棠館(かんとうかん)」を1784年に開校、亀井南冥先生の高名により聴講生であふれていたそうです。 |
ところが1798年、近くから出た火が燃え盛り、甘棠館も亀井南冥先生の屋敷も類焼してしまいました。当時、幕府より学問統制を目指した「寛政異学の禁」の政策が出され、朱子学が本流となったこともあって、甘棠館は残念ながら再建されませんでした。 ちなみにこの「甘棠館」の由来は、中国最古の詩集「詩経」の『蔽ふつ甘棠勿剪勿伐』(蔽ふつたる甘棠は剪る勿れ伐る勿れ・へいふつたるかんとうはきるなかれきるなかれ)により、甘棠とは「やま梨の木」のことで、この木を福岡藩7代藩主・黒田治之(はるゆき)から頂戴したことや、善政を称える意味もあったようです。 |
その後、息子を中心とした私塾「亀井塾」が再開され、そこで指導にあたることとなりました。その際もその高名から、九州にとどまらず日本全国から弟子が訪れ、多くの優れた人材が育ったそうです。ところが1814年、自宅の失火により死去することとなります。伝えられるところでは猛火の中で端座して焚死したということです。なお亀井南冥先生のお墓は、浄満寺(福岡市中央区地行)に現在もあります。 |
亀井南冥先生の著書は多くありますが、「南冥問答(問答形式の医学書)」、「古今斎以呂波歌(医学書)」、「論語語由」などがあります。 |
ということで、案内板だけのマイナーなスポットでしたが、亀井南冥先生について調べることでなんとか3回目を終了です。このスポットを探しに、姪浜をウロウロとされても面白いかもです! |